東京知道会

歴史

昭和27・28年ころ森元治郎氏(大正13年卒)、郡司篤孝氏(昭和8年卒)、野球部OB会が中心となり準備会を何度も開き、東京に在住・勤務している同窓生の名簿をこつこつ完成させ、規約原案を作成し役員を決め、ついに第1回総会が昭和32年に小石川の茗渓会館で開催され「在京水中一高会」が発足しました。 この第1回総会には200名近くが出席し、初代会長には元大使の栗原正氏(明治41卒)が選ばれました。森元治郎氏が会報によせた投稿には「会の育成にもっとも力をかしてくれた荷見晋氏(明治45卒)も会長候補にあげられたがまだ若いから次期ということで見送られた」「最長老は明治36年卒の大森伊義氏」と記されています。 その後、総会会場は日比谷の松本楼、大手町の産経会館国際会議場(現サンケイプラザ)へと移っていきました。
「同窓の集い」の企画運営を幹事学年が担当するというシステムは昭和30年卒が初めて行い、現在までずっと続いており同期結束の成果をあげています。 当会と知道会との関係ですが、当会は水戸より先発であり且つ活発な同窓会活動をしているという自負の下、水戸の支部ではない独立した組織であるという認識が長く続きました。(設立時期に関しては当会が先んじたという証明は難しくほぼ同時のようです。)
昭和54年に母校が創立100周年を迎え、同窓会として記念事業をするに当たり、水戸の組織も充実し、当会内からも水戸の支部という認識で活動しようという動きが見られるようになりました。しかし、知道会評議員会において当会の名誉を毀損する発言があったため「当会は下部組織ではない」という意見が主流を占め、名称問題にも結論を出せないまま20年余が経過しました。 対立は無益であるとの認識に基づき、昭和54年に同窓会本部が水中一高会から知道会へ改称されたこと、時代の流れで知道会という名に親近感を持つ世代が増えたことを考慮し、平成13年2月24日の総会決議により「在京水中一高会」という歴史ある名称に別れを告げ、首都圏支部との位置づけで「東京知道会」と改称されました。
事務所はというと最初は役員自宅・会社を転々とし、四谷の國際電設、千代田区富士見町にあった本間誠二氏(昭和24年卒)の個人事務所、小林一郎氏(昭和7年卒)が社長職にあった日本橋の水戸証券(秘書室)にお世話になった後、独自の事務所を昭和63年10月に台東区松が谷に設けました。その後、増田倫夫氏(昭和41年卒)のご厚意により、幹事会などを開くことが可能な広さを持つ事務所を荒川区西日暮里に確保することができ、平成5年8月に移転し、OA機器等をそろえて管理事務機能の充実を図りました。しかし、事務所維持費を削減し会の収支改善を図る必要から、平成24年4月に事務所の契約を解除することとなり、ITを活用し事務処理の負担を軽減しつつ、貸会議スペースを利用するなどして活動を継続しています。
会報の発行ですが、安平輔氏(昭和4年卒)から昭和47年2月の総会で会長を引き継がれた小島新一氏(明治43年卒)の揮毫による題字、編集発行人は河井克夫氏(昭和12年卒)で昭和47年6月1日に創刊号が出されました。しばらくは年1回の発行が続きましたが、昭和57年より年2回の発行をしており現在に至っています。 このように歴史ある東京知道会をさらに継続・発展させるために、是非、若い世代が行事へ参加されること、運営に参加されることを期待しています。